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gachispilabのブログ

自称ブログラッパーのなんでもお楽しみブログです。むしろパラッパラッパーって感じでラッパ吹いちゃう感じです。

「教材」とは恐妻のような存在なのか、救済のような存在なのか、9歳の子にも分かるように書けたら秀才。

「教材」とは恐妻のような存在なのか、

救済のような存在なのか、9歳の子にも分かるように書けたら秀才。

 

Doモ。いちおーこれブログサイファー記事っす。

 

勝手に頂くお題記事はこちらでござい。

 

ameblo.jp



もはや「英語嫌い」とわたくしが

言っても信じてもらえない位、

このブログと対話していますが、

 

おそらくですが、「英語出来ないキャラ」という鉄仮面を被るのが、

わたくし好きなんだと思います。それと多分、英語圏の人達をDisるのに、

「出来ないキャラ」が必要だと思ってるのでしょう。

 

逆に英語出来た上でDisってもいいんじゃねーのかっていう

気持ちは否めません。

ちょっとこういうのはわたくしの

パターンとしてはありがちなので、

近いうちにぶっ壊していく事にしましょう。

 

出来たって出来なくたってどうだっていいのに、
いちいち「できないキャラ」を演じる癖は、

何かのタイミングでそういう鉄仮面が

皮膚化しちまったのでしょう。

それこそそこ治すのに皮膚科にいったところで、

「は?」って医者に言われるだけだしょうからね。

 

まあ、自らそういう役に入ってしまった感も

無きにしも非ずですが。

とは言え、最近「大和魂の研究」なるものを

執筆しているもんだから、

調べたくなくても、『西洋』を調べないと、

日本との比較ができないので調べてますけど、

 

まあ、『西洋』っていうOSと、

日本っていうOSは大分違うっていうか、

Windowsやってた人が、Apple製品いじるのに

すげー違和感するのと似てるのかもしれませんね。

 

日本語ってなんか

「情が入ってる」気がするのですが、

英語ってそこに「情が入ってない」気がするんですね。

アルファベット羅列させてるなんか

記号感がハンパネーっていうか。

 

もちろん日本語も記号でしかないのですけど、

それでもやっぱ「言霊」とか

言いたくなっちゃう要素は

日本語の中には含まれている気がして。

 

それが良いとか悪いとかではなくて、

構造上まあそうなんじゃないかなと。

 

で、考えてみたいのは、

 

例えば同じ日に生まれた子2人が、

1人は日本的な野菜だの穀物だの食べて

20年間生きてみたとしましょう。

 

もう1人はずっとハンバーガーとポテトみたいな

食生活だったとしますよね。

 

絶対、環境がほぼ同じでも、

違う人間になってるだろ。

 

っていう。

 

これ何が言いたいかっていうと、

食い物以上に「言葉」食ってる量の方が、

我々多いと思うんですね。

 

だから、今わたくしこんな感じの

日本人100%みたいな状態ですけど、

 

もしも3歳ぐらいから30年間アメリカで過ごしてれば、

絶対にこんな奴になってない気がするんですよね。

 

それこそ、アメリカで幼少期から30年以上過ごして、

それでも今のわたくしのような性格だったり、モノの考え方だったら、

まあ「魂の正体」ってなんとなく分かってくる気がするのですが、

 

おそらくそうじゃないと思うんですね。

なんかすげー態度でけー感じになって、

それこそ、もうDisらせたらハンパネー感じに

なってるんじゃないかと。

 

わたくし、まだ日本人的だから、

Disにも愛情が籠ってる感じするじゃないですか。(笑)

 

だけど、アメリカ暮らしverのわたくしは

たぶんとんでもないと思いますよ。

おそらくDisの破壊力がありすぎて、

銃で撃たれて30年も生きてないんじゃねーかってぐらい、

気を使わない感じになってるんじゃねーのかなと。

 

まあ、そのバージョンの自分には

今世ではお目にかかれないので、

確認することは出来ませんが、アメリカに住んでて、

こんなMr.儒教の精神、禅大好きみたいな人間になる訳がないっていう。

 

アメリカにずっといて、儒教的なアメリカ人とかいたら

会ってみたいですねー。

ただ、逆に日本にずっといて

アメリカっぽい人はいなくもないですね。

っていうか「日本人100%」とか言いましたけど、

江戸時代の日本人からわたくしを評価すれば、

「日本人20%ぐらいだよ、お前は。」と

言われるかもしれませんし。

 

で、対話したかったのは、

そこじゃないっていうかこれです。

 

「教材」とは恐妻のような存在なのか、

救済のような存在なのか、9歳の子にも分かるように書けたら秀才。

 

もはやこのタイトルだとなんなのか分からないのですが、

 

もう一回貼りますが、

 

ameblo.jp

 

の中で、「教材ってなんぞや?」という対話の部分があるのですが、

こういうDisがありまして、

わたくしそこに非常に感銘を受けております。

 

なので、そこ引用しますが、こんな感じ。

 

「教材」があるから気持ち悪い

なんとも言えない違和感を醸し出しているのです。

 

 

私は「教材」が、コミュニケーションツールである英語を

言葉ではなく、教科にしてしまっている。

 

 

つまり、子どもたちの遊びから学ぶ機会を奪い

「自分語」を奪ってただの文字の配列

雑音の塊にしてしまっているのでは?

 

 

という仮説を立ててみました。

 

 

なぜ「教材」が子どもたちの

遊び、「自分語」を奪っていると考えるのか?

 

 

そもそも「教材」とは

 

教授,学習の必要に従い用意される材料。

教育目的を達成するために、児童・生徒の学習に供する素材。

 

などの意味があるようです。

 

 

教授

教育目的を達成するため

はい。ここが引っかかります。

 

 

つまり、「教材とは」

教えるための材であって

学ぶための材ではないんですよね。

 

 

ってことはつまり、「教材」とは

「教える側」にとって都合のいいものなんですよね。

 

 

決して「学ぶ側」の立場や考え方を優先したものではありません。

 

 

確かに、大人数に教える場合だったり

「基準」や「規則」を教えるのであれば

同じ言葉を大人数に伝えることができるので

「教材」は有効なのかもしれませんけどね。

 

 

でも、子ども、特に幼児への英語教育で

英会話教室の場合

この「教材」というのは本当に必要なんでしょうか?

 

 

「教材」があることで

自宅でも予習復習ができます!

というのが教室側の言い分ですね。

 

 

確かに、普段から馴染みのある

音楽やフレーズがレッスンに出てくれば

子どもも喜びます。

そして、学習内容が分かれば親も安心します。

 

 

でも、「教材」があることで「教材」に頼ってしまい

「教材」に沿った内容しかレッスンできないんじゃないかと思うんですよね。

 

 

今月は○○をテーマにやります。

来週は○ページをやります。

 

 

ということは、決められた言葉を

決められた形でしかレッスンできなくなってしまう

制限されてしまうということになります。

 

 

ということは

教材には載っていない言葉を誰かが発したら…

「今日はその言葉ではないから」と

かき消されてしまう…

 

 

消されるだけならまだしも

「発音が違う」「意味が違う」

とその場で訂正されてXをつけられることもあるでしょう。

 

 

「教材」を重視するあまり

子どもが感じたままにする行動や

発する言葉を無視してしまうことにならないのか?

 

 

本当はそこに子どもたちが自ら学べるポイントって

たくさん埋もれているんじゃないか。

 

 

それを引き出すのは大変なことだけれど

引き出せることができなければ

意味がないんじゃないか?

 

 

実際に、教えている人の立場からしたら

そんなのはただの理想なのかもしれない。

 

 

でも、その理想をただの理想で終わらせていたら

きっとどんなに英会話教室に通おうと

学校の授業で英語の教科化が早まろうと

日本人が英語話せる授業にはならないでしょう。

 

 

 

「教材」を使うことで

決められた世界のことしか学べないということは

 

 

「自分語」で疑問を持ち

「自分語」で学ぶ機会を奪ってしまう。

 

金太郎飴方式の

「型にはまった大人になる」

そのための英才教育をしているだけなんじゃないか?

 

 

そんな風に感じます。

 

民謡で歌ってごまかすしかねーなってぐらい

長文を引用してしまいましたが、

まあ、ちょっとなかなかの語りだったので、

引っこ抜いてしまいました。

 

これ実はですね、

わたくしのふわふわ引き寄せ力によって、

昨日、ある有名漫画家の方の

少人数限定のセミナーに潜入する

NAZOのイベントがあったのですが、

 

そこでもその某有名漫画家の方が、

違う文脈ではありますが、

同じような事を話していました。

 

枠が決められた時点で、

もう面白いものは生み出せない

 

的な。

 

もう「教材」っていうのは

そういう「枠」であって、

「テーマ」ってのはもはや「枠」

そのものですから、

それこそ「枠」なんて決められてやらされる事は、

ワクワクする展開になど進まず、、

常に予定調和的なところに、「枠」から外れようとしても

軌道修正されちまうって事ですね。

 

そういえば、子ども達にサッカー指導した時、

まさにそういうことってよく起こりました。

 

晩年のわたくしの指導は

「枠からどれだけ飛び出すか」っていうか、

枠から飛び出てる状態で楽しむ事しかしてなかったので、

とんでもなくふざけてる奴らが、

優勝候補のチーム倒したりとかよくしてました。

 

相手チームの子ども達には

ものすごく申し訳ない気持ちはありました。

だって、ウチのふざけた感じのサッカーに負けると、

相手チームの監督が、界王拳100倍ぐらいの勢いで、

子ども達に説教するんですね。。。

 

だけど、そういうもんだってことでしょ。

ふつーに考えてみてください。

 

40歳のオッサンと

 

10歳の子ども。

 

どっちが、

可能性を

秘めていると思いますか?

 

まあ、最近のクソつまらねー教育受けているガキんちょ共が、

わたくしを超えられるとは思いませんけど、

 

基本的には、

10歳の子どもの方ですよね?

 

で、あれば可能性のたくさん詰まった子ども達に、

やりたいようにやらせた方が、

たった1つ勝敗というこの部分さえ気にしなければ、

 

もう面白い事っていうか、「うわー、そんなことやるの?!」

っていう大人を驚かせるような事のオンパレードですよ。

 

それこそ、「想定内通りの素晴らしい試合運び」なんて、

もう中学生かになれば、そういうつまらねー

サッカーしかできなくなるんだから、

小学生の間ぐらい、好き勝手やらしてあげればいいんですよ。

 

とか言って、そうなる前は、

わたくし昔の安西先生状態で

鬼でしたけどね。(ゝω・)テヘペロ

 

まあ、子ども達を観察してると、

「嗚呼、やっちまった。。。強くはさせたけど、

 可能性奪ってんじゃん、俺。。。」

 

って事に気付かされたんですね、ある段階で。

それからはもう子ども達の

「可能性」にオールベットしただけです。

それこそ、とんでもねー指導内容でしたし、

子ども達も収集つかなかったですけど、

 

それでも勝ったり負けたりなんですよね。

ずっと負けっぱなしって訳でもない。

 

それに「言われたことをどれだけ実行できるか。」

なんて事の訓練をしたところで、

それこそロボットになってしまいますからね。

 

「教材」ってのはそういう危険性を

含んでいるという事はあるでしょうし、

2歳、3歳の子にとっては教材なんて

本当に不要でしょうね。

それこそ、どこのどれをとったって

それが彼らにとっては、

おもちゃであって、教材なのでしょうから、

 

「この教材じゃなきゃダメ」ってのは、

もはやわたくしの本で言うところの

 

「親が自分の子どもに鉄仮面かぶせてる」

 

みたいなもんですね。

 

実際、「教育」なんてのは

おこがましいんですよ。

「観察」ですね。で、観察して

大人たちが学ぶんですよ。

 

「嗚呼、とんでもねー発想力だな。枠のない奴らって。。。」

 

って。

 

もしくは大人たちが子ども達に出来る事ってのは、

 

きっかけっていうか「こんなんどうですか?」

って子ども達の前に、おもちゃを転がしてみるぐらいですよ。

 

その転がしたおもちゃのどれに、

興味を示すかどうかを観察するだけ。

 

で、子ども本人が激コミットした何かがあるのであれば、

そこに全力で応援してあげてもよいのかもしれませんが。

 

もはや「わが子をこうしたい」と

親が思ってしまった時点で、

それは「枠」ですよ。

 

「枠」を決められてしまえば、

わたくしなんて自分自身がそうでしたけど、

 

親が「こうなってもらいたい」という「枠」と、

わたくしが「これにコミットしてブッ込みたい」っていうものが

まったく違いすぎて、

 

まあ、かわいそうな子どもだったなと思いますね。

幸運な事にアスペルガー気質だったために、

大人の話聞くことが出来なかったので助かりましたけど、

健常者的な人間だったら、それこそ生まれた時から

牢獄決定みたいな人生でしたね。

 

そういえば、今日ワイドナショー武田鉄矢っていうか

金八先生っていうのかどっちで呼んでよいのか分かりませんけど、

まあ、また金八語録っぽい感じで、

武田鉄矢節を放ってましたが、

 

その中に

 

「何故、男は不倫をするのか?」

 

みたいな事を話していました。

それは、

 

「女性関係の傷は、女性関係によってでしか埋めることが出来ないんです。」

 

みたいな発言だったのですが、

わたくしはこれ「女性関係」に

限ったことではないと思ってるんですね。

 

よく、親が自分ができなかったこととかを、

子どもに託すっていうか、わたくしから言わせりゃ

「押し付ける」ってことなんですけど、

 

あれって、武田鉄矢の言うところの、

 

「女性関係の傷は、女性関係によってでしか埋めることが出来ないんです。」

 

と、同じですよ。

自分の人生の凹みをどうやって埋めるか?

 

大体は、子どもにやらせて埋めようとするんです。

 

そうじゃなければ、

「この子は勝手に好き勝手生きりゃいい」ってなりますから。

要は、そこになんらかの執着ってのがあって、

「執着」という結果が存在してるって事は、

 

その「執着」を生み出した原因がある訳でしょ?

人はこうやって何かに囚われるって事です。

 

本に書いた

「自分の人生のコントローラーを自分以外の何者かに握られて

コントロールされている状態」

 

ってこういう事です。

 

で、これが負の連鎖スパイラルを引き起こすわけですね。

わたくしの持論ではありますが、

ベストの教育をするマインドって

 

「のたれ死んでもしょうがない」

 

なんだと思ってます。

 

だってしょうがないでしょ。

本人が「冒険にいきたい!」ってコミットして、

その冒険で死んだとしても本望ですよ。

それよりも、やりたいことがあるのに、

箱入り人生みたいにされて、安全だけどやりたいことが

何もチャレンジできない人生程、

不幸な事はないと思います。

 

で、「じゃあ英語もそうなんですか?」って聞かれると、

英語って言語ですよね?コミュニケーションツールですよね?

 

「この子が世界と渡り合おうとした時に

「自分は英語が出来ない。だからあきらめよう。」ってことにならないように。」

 

という想いであるのであれば、まあいいんじゃないですかね。

 

わたくしだったらどうするかっていうと、

そうなってみないと分からないです。

とりあえずやらせてみて、

嫌じゃなさそうならやらせようかな的な。

 

それこそ、ラップさせたがってしまうでしょうから、

そこは押し付けない様に注意が必要でしょう。。。

 

「あのオヤジ、ダジャレしか言わない」

 

とDisられるぐらいの方が良いかもしれません。

 

もう、人格が違うし、それこそふわった世界で「魂」があるのであれば、

「枠」なんか決めちゃいけないですからね。

それこそ、子どもにもかもしれないけど、

大人側に呂布カルマが嵌めてくる

催眠術的ラップ以上のカルマを自分で作って

背負うことになってしまいますので。。。。

 

まあ、「執着」ってのは、

不純物だからそこに嵌らないように気を付けないと、

ずっとグルグルまわっちまいますからね。

 

だから、ずっと同じやつDisったり、

同じことDisってるのも、「そこにカルマあり」って感じですね。

なので、やっぱり一番は断捨離してしまうのが一番ですね。

 

もちろん、武田鉄矢のさっきの話ではありませんが、

若かりし頃の傷というかダメージみたいなものが、

そう簡単に消えるのであれば、

 

わたくしの言うところの「1億2千万総鉄仮面計画」なんてものが、

起こる事は無いので、

 

人間、20年30年それ以上生きてれば、

やっぱ壊れたテープレコーダーみたいに、

っていうか、DJがレコードを擦るように、

同じところばっかりいじっちやったりなんかして、

されこそ、レコード擦ってる時って、

 

前に擦って後ろに擦ってって感じで、

前にも後ろにも結局進めていない訳ですから、

やっぱりそれって人生に置き換えたら、

 

『カルマ』って感じがするじゃないですか。

 

なんか話がレコードの針が飛んだかのように

飛んだ感じも否めませんが、

 

大人が子どもにカルマを背負わせるような事が、

一番この世界を、エントロピー増大の法則的な感じで、

あまりよろしくないカオス加減を広げていく結果になると

わたくし思っておりまして、

 

子どもに「1カルマ」背負わせると、

背負わせた大人側はおそらく「25カルマ」ぐらい

背負うことになりますよ。(笑)

 

なんとなく感覚的にそんな感じがします。

 

で、結局「自分の理想引き寄せられない人」って、

 

カルマ背負いすぎて、

 

新しい人生を積める

スペース無さすぎ

 

って事ですよ。

 

「断捨離しても人生変わらねーんですけど。。。」

 

って人は、

 

本当に「これまでの人生で背負った

カルマっていう積み荷も降ろしてますか?」

 

っていう問いと向き合わないと、

 

ある意味それが魂的な意味合いにおいての

罪にもなってしまいますので、ご注意を。

 

って感じで、不意にも踏めるようになったら、

寿司にもたどり着けるんじゃねーかななんていう、

 

食欲的カルマをガンガン積み荷にして、

韻踏めるところを無理に売りにして、

いけたらこのブログも嬉椎名桔平って感じで、

 

この記事詰み状態だって感じで、

 

合掌。